立ち枯れした向日葵「日本」

他人の都合等にまったく気兼ねすることなく、自分のやりたい目標をしっかりと立てて、それを計画的に進め、達成していく(旗を立てる)。

そんな爽快感や充足感は、私にとって何事にも代えがたい「快楽」である。

もっと面白いのは、そんな計画に何かの気掛けで思い切ってリセットをかけて、真っさらの状態から再スタートする事だ。

さすがにそんな事を頻繁に繰り返していると疲れるが、まあ4~5年に1回位は「見事な掌返し」をするのも悪くないなと思う。
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12月17日の昼前に、約1ヵ月ぶりに新百合ヶ丘の自宅に戻って以降の私は、余計なことは一切考えずに、ひたすら「2024年の目標・計画」の「旗立て作業」に没頭してきた。

やっぱり、爽快感に包まれて新年を迎えたいものね!

そんな追い込みの日々も、いよいよ佳境を迎えつつある。

今日は1日、東京での講演とお客様との会食で予定がギッシリ。

無事に(計画通りに)乗り切ったので、明日(火曜日)は「身体のメンテ日」とする予定だ。

水曜日と木曜日は「人間ドック」で、金曜日が今年最後の「東京での講演日」となる。

久し振りに「掌返し(或いは、ちゃぶ台返し)」をするかどうかは、年末から年明けに掛けての楽しみだね….
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実は今日の午後、講演から講演への移動中に、表参道の交差点で信号待ちをした。

その際にちょっと「衝撃的な光景」を目にしたのである。

明らかに「向日葵(ひまわり)」と思われる枯れた植物が、表参道交差点の信号の所に1本、ポツンと生えて(正確には立ち枯れて)いたのだ。

周囲は、外国人観光客を中心に人が溢れかえっていたのだが、何故か、誰もそんな光景に気を留めようともしない。

こいつら、観察力とかが欠如しているんだろうな…

その立ち枯れした向日葵が倒れないように、誰かが信号支柱と1本の細い紐で結んだようなんだよね…

しかも、その紐の一部がほつれていて、いつ切れも不思議ない状態なのだ。

表参道の交差点に1本だけ残された立ち枯れした向日葵。一本の細い紐が支えになっているのだが、その紐が切れそうなのだ。まるで「日本」の現状を示しているようだね!

なんかもう痛々しいというか、憐れというか、本当に切ない光景だった。

それを見た時に私は「ああっ、この向日葵が、正に日本の現状だな。」と思えたのだ。
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講演を終えて、再び表参道の交差点で信号待ちをしたのは午後5時半前だった。

イルミネーションやカルティエのクリスマスツリーが美しく煌めく中、あの「悲しい(侘しい)向日葵」は、まだ紐が切れずにかろうじて立っていた。

表参道のイルミネーションは相変わらず美しいな…
カルティエのクリスマスツリーを見ると、立ち枯れした向日葵がさらに憐れに思えてきた。

でも、周辺の華やかな光景とのギャップがあまりにも極端、かつ、惨めで、さすがに私も写真撮影を躊躇してしまった。

なんか年末も迫った中で、2025年の日本を暗示するかのような、トンデモないものを見てしまったな…
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すべての予定を終えて、自宅最寄りの新百合ヶ丘駅に戻った。

いつもはショボく見えるペデストリアンデッキのイルミネーションが、今日は何となく華やかに感じられた。

いつもはショボく見える、新百合ヶ丘駅ペデストリアンデッキのイルミネーションが、今日は何故か華やかに感じられた。
新百合ヶ丘駅のイルミネーションも、もう少しお洒落にして欲しいよね。

そりゃ、あの立ち枯れした向日葵に比べればマシに見えるよね!

まあでも、こんな光景が続く中を帰宅するのは悪い気分ではなかったな…

特に根拠はないけれど、2025年という年は、日本にとって存亡が問われる年になるのだと感じる。

もっとも、もう「国家」がどうのこうの言うような時代ではないと考えているので、私にとってはどうでもイイ事なんだけどね!

大切なのは、個々人の生き方、特に、心の持ちようだろう。

まあでも「日本人としての矜持」みたいなものは、ほんの少しだけ残しておきたいな…

— One Life, Live It !