急速に変わりつつある趣味趣向 — ④土偶さん写真集編

9月の中旬に50数回目の誕生日を迎えた。1の位を四捨五入したら「還暦」、10の位ですれば「紀寿」となった。もう間違いなく「人生の終盤戦」に突入している。

八ヶ岳のオフィスで仕事をして疲れたときには、オフィスのロフトに置いてあるソファベッドに寝転がる。その脇のテーブルには「土偶さん写真集(図録)」が並べてあり、それらをパラパラと見ながら小休止する。「変な人」と思われるかもしれないが、そもそも変な人なのだ。

国宝土偶「かっくうちゃん」との偶然の出会いから始まった私の「縄文土偶探訪記」において、その初期に大きな役割を担ったのが「土偶さん写真集」であった。オフィスセルフビルド完工直後の2014年1月に「自爆テロとバイオハザード」で3週間近くも身動きとれない状況に陥った際に、ベッドの上で毎日のように眺めていたのが「土偶・コスモス」「縄文美術館」という代表的な写真集だ。そしてこの2冊が、その後に続く【縄文土偶探訪記】の道標の役割を果たしてくれたのである。

だがやがて、私は写真集を「見て楽しむ」事よりも「知識の詰め込み」に急速にシフトしていった。探訪した土偶さん達は、写真を見ただけで「出土地はどこで、どこの博物館所蔵で、どんな愛称があり、縄文時代のどの辺りの物で、国宝や重文指定を受けているか否か」なんてのを即座に答えられるようになる事に喜びを覚えるようになった。

その後は、新泉社のシリーズ「遺跡を学ぶ」の縄文関連本を片っ端から読んだ。もう縄文時代や土偶さんに関しては、相当の知見をストックできたはずなのだが、でも、結局は「土偶さんは何のために作られたか(そもそも何なのか)?」については、わからなかった。そこがまた土偶さんの魅力なのだが…

や~めた! 本なんて読んで知識を蓄えても面白くない! 土偶さんの名前なんてどうでもイイ事だし、出土地なんかも関係ない。「かっくうちゃん」との出会いのように、ただ単に見て感動できれば、それで十分じゃないか! こんな「心境の大転換」が起きたのは、今年の8月頃の事である。

現在、ソファベッドの脇に置いてある写真集・図録は「土偶・コスモス」「縄文美術館」「新・縄文美術館」「特別展『縄文-1万年の美の鼓動』 図録」「土の中からでてきたよ」、そして「縄文の夜神楽」の6冊である。

【縄文土偶探訪記】の初期段階で大きな役割を果たしてくれたのが「土偶・コスモス」と「縄文美術館」であった。「縄文美術館」は「新旧」比較という楽しみもある!

元々1番のお気に入りであった「縄文の夜神楽」に最近、一段と魅了されるようになってきた。と言うか、もう、すっかり嵌まっている。モノクロームの写真で表現された土偶さんや縄文土器は幻想的であり、何となく、Lovecraft が創り出したクトゥルー神話」の世界を彷彿とさせるのである。

土偶さんは「土の中からでてきたよ」の表紙のような「愛らしく親しみやすい存在」であるよりも、「畏怖・畏敬の対象」でいる事の方が相応しいように思えてきた(あくまでも個人的見解だが…)。そういった意味では、「縄文の夜神楽」のモノクロームの写真で表現するというスタイルは本質を突いているのではないだろうか?

昨年の東京国立博物館「特別展」の図録は素晴らしい出来映えである。あっと言う間に完売となったらしいが、当然だな。「土の中からでてきたよ」は土偶さんや縄文初心者には良い本だ。でも「縄文の夜神楽」がやっぱり最高だ。八ヶ岳滞在中は毎日のように眺めている!

最近は、5大国宝土偶さまとしゃこちゃん以外は、敢えて愛称や出土地などには拘らないようにしている。すべて「古代の異形のもの(Ancient variants)」として接するのが「令和時代の土偶さんの味わい方」なのである。